昭和51年12月31日 除夜祭



 今年も大変なおかげの中に、もう数時間の後に終わろうとしております。今年のまぁいろいろな私共の信心を振り返ってみて、まぁ一番仕上げの様に頂いておるのが、合楽理念に立脚して、今まで私共がなし得なかったではなくて、なそうと思えばなせた事を、疎かにしてきておった事が大事な事である。大変なこれが大事なものであると言う事を気付かせて貰うて、合楽理念に立脚してなそうと思えば子供でもなせる事をなしていこうというのが、今年まぁ今年ではありません。
 また来年にも再来年にも、私共が生涯あの世までも、この信心だけは持ち続け、そして極め続けていかなければならないという、沢山なまぁいろいろな過程、段階を追うて今日ここのところまで来ております。昨日研修の時に今学院生が、昨日六名今日今朝の八時の汽車で、また御本部に帰りましたというのが、あの年頭参拝の本部の御用がございますので、みんな発ってまいりました。
 で昨日研修終わった後に、合楽理念という事が、本部でもいろいろ取り沙汰があるらしいので、また合楽が妙な事を言い出したという風に感じておられるようです。昨日も研修の前に今度の新しい学院生だけに、三、四十分お話をまぁ言うなら学院生としての心構え、まぁ後いよいよ半年になったから、そこん所をひとつまぁ合楽示現のつもりで、なるほど合楽の修行生は違うと、まぁそれを見せるためではなくて、合楽示現の為に精進しなければいけないよという話をした後に。
 あんた方は毎日毎日こうやって、ここで合楽理念について、お話を頂いておるけれども、あぁた方の場合はテープで聞くかまたは、おかげの泉でまたは新聞で見るだけで、本当の事が分からないと思うけれども、あんた達が捉えておる所だけを、ひとつ便箋に書いて、そして今日中に出しておくようにと言うて、昨日申しておりましたら夕べ十二時ごろ、ここへ出て参りましたら、その便箋にまぁ合楽理念を一口で言うならばと言う事を、まぁ纏めてここに出しておりました。
 それで私それを夕べそれを読ませて頂いてから、なるほどなかなかねその一口で皆んなにも分かるように、合楽理念とはどういうことかと。三四日前に本部の学官先生から、そのある修行生の事で電話が架かってまいりました。そしてもう二言目には合楽、僕達は合楽理念に基づいてと言うんだが。大体「合楽理念とはどう言う事ですか」と、言う様な質問を受けましたんです。だからなら彼達が果たしてその合楽理念というものが、どのように説明出来るかと言うて、便箋に纏めて出させましたら。
 なるほど纏めておりましたけれども、まぁ核心に触れてない感じがしましたので、その六枚の便箋に私が一口ずつもう、私はこれは芯だと思う所を神様にお願いをして、その便箋に書き添えて、今日は汽車の中でこれは皆が出し合うて、これをまた纏め合うて合楽理念とはと言う事を、本部で誰に問われてもこれがお話が出来るくらいに、これを徹底的に説くと言うならば、ここに合楽理念の確立と言う、一つのこれが文章にでもなると言うならば、やはり今後の聖書にでもなろうと言うのですから。
 随分厚い本にでもしなければならんだろうと、思うのですけれども。大体一口で言うならこう言う事だと言う様な事を、私が書いておった事を今朝の御理解に皆さんに聞いて頂いた。それを今日はあの研修の時に、末永先生がそこん所だけを纏めておりましたから、聞いておってから改めて成程ここだなと。皆さんはどうだろうか。合楽理念を自分の心のなかに纏められたら、どう言う事になるだろうか。皆さんの頂いておる合楽理念と、又は学院生が纏めておる、学院生これはもう長うなりますからですけれども。
 私がまぁ昨夜それに一筆ずつ書いておる短い文章ですから、それを聞いて頂いて今年の締めくくり、合楽理念に基づいてというそういう信心が、そう感じておるかそう分かっておるかと言う所を、一つあの確かめて頂きたいと思います。それでちょっとここの所だけ読んでもらいます。先生あんたが読んでちょっと聞いて頂きます。「合楽理念について一つ、天地日月の心。助かりたい人間の幸福の条件が足ろうて来るおかげ。しかもあの世までも持って行かれるものを頂きたい。
 それには真実一路あるのみ。すなわち天地日月の心になる精進。成り行きを大切に頂く事は、天地日月の心が分かり頂く事になる。成り行きを大切に頂くと言う事は、天の心地の心が分かり、日月の心が分かって、それを行じていく事にある。
 二つ、神の心を心とする修行。それを実に有難く、楽しく行じてゆける根本理念を教えるのが合楽理念。これならその気になれば、誰でも生神を目指す事が出来る、自他楽の道だ。
 三番目、信奉者の全部が、立教神伝を受けて立つ積りで、神と人との助かり合い、あいよかけよの精神を、体得させずにはおかん内容を、感動で受け止められるように、解き明かす迫力を感ずる。
 四番目、あの世は暗黒だ。この世で魂を清め、光を受けてこの世の幸せ、あの世での光明世界に住めと合楽では説く。
 五番目、表行にては金光大神の信心の真の体得は出来ない。心行一筋、金光大神の世界は開かれる。一切が神愛、一切が有難しの世界である。
 六番目、合楽で説くところ、如何に金光大神の御教えが、普遍性に富んでおるかを強調する。」
 以上の事を皆さん聞いて頂いて、皆さんが何時も耳に馴染みのある、それなら私も知っとると言う様な事ばかりじゃないでしょうか。けれども纏めると言う事になると、なかなか纏まらないもんです。今の事を例えば合楽理念の芯になるものだという風に、まぁだ沢山色々いうならばわたくしが、長年説いてきた信心がその内容にならなければならないことは勿論であります。どうだったでしょうか。先生まいっちょこれを一つ読んで下さい。これは夕方ほんな短い手紙ですから。
 この夕方の便で手紙が参っておりますからちょっと読んでください。広島の方です。
 「前文御免下さいませ。この度は突然にお引き寄せ頂きまして、大変なるお世話様に相成りまして厚く御礼申し上げます。第一に嬉しいことは、凡夫な私が親先生親奥様に、じきじきに親しくお目に掛れました事。その上、心温まるお世話に相成りお宿を賜りましたればこそ、月次祭のおかげも被る事が出来ました。只々有難く勿体なくて御礼申し上げるに相応しい言葉も見つかりません。
 真に有り難うございました。重ねて御礼申し上げます。偉大なる親先生のお徳によりまして、頑固な右腕神経痛で医者も五十肩だから、仕方がないと見放されていたのが、お広前でおかげ被りましょうと仰る親先生のお一言で、即座のおかげを頂きました。それ以来今まで右手を伸ばすと、涙がこぼれて痛くてその手を動かせなかったのですが、只今は本当におかげを頂きまして、自由に振舞える身の上にして頂き、つい有り難うございますとうれし涙に変えていただきました。
 このように偉大なる親先生。どうか難儀な氏子のために、何時までも何時までも、ご寿命長久身体ご丈夫であらせられますように願ってやみません。なお封筒にて一金五千円なりご送付させて頂きます。真にかってさせて頂きまして相すみませんでした。お許しくださいませ。それから本日サヨリの干物ほんの少しですけれども、郵便小包にて送らせて頂きます。どうか受け取り下さいませ。」
 これは先日のお月次祭に、広島から参拝した信者のおかげ話でございます。まぁこういうおかげは毎日ですね今合楽の場合は。昨日一昨日二十九日の敬親会にも、福岡からもうそれこそ、大変なおかげを頂いて、夫婦で御礼に出て来た所へ、丁度ここで敬親会があっておりましたから、本人の立ち居をそこで見たり聞かせて貰うて、本当に神様のはたらきの、いわばシャープなおかげに、只々恐れ入ってしまうと言う事でございました。
 そういう例えばおかげが新しく道を求めてとか、新しく参拝になられる方達だけが受けるという事ではなくて、永年信心のおかげを頂いておる者も、やはり一緒におかげをいやおかげではないそういう調子で、神様のお徳というかお光というか力を頂いていけなければならんのですけれども、どう言う様な所に間違いがあれば、そういうシャープなおかげになって来ないのであろうか。一つ考えてみたいと思います。どうでしたでしょうか、そのう合楽理念の分からなければならない事。
 いやまた私共が日々頂きよってあの実感というものが、私が言っておる様な実感が皆さんにあるだろうか。例えて言うと神も助かり氏子も立ち行く、立教神伝その立教神伝を教祖様だけではない。私合楽の信奉者一人ひとりが、私がそういう神頼みを受けておるとして自分の助かりだけではない、神様も一緒に助かって下さる様な働きに、信心にならなければならないと、皆さんが感じておられないなら、あの私が今日言っておる事は一か条だけ嘘になる訳です。本当にそうさせて貰わなければそうあらなければならない。
 例えば久富正義先生が、先日謝恩祭を仕えさせて貰うて、今までは成程もう本当に、どんぶりがなかった。日まさり月まさり、年まさりにおかげを頂いてきた。それこそいうなればもう家別れをする時には、スコップ一丁からおかげを頂かねばならないという様な状態の中から。または自分の身体の上には、もう生か死かと言った様な、難儀な病気を抱えながら、そして今日までおかげを頂て来たという事は、成程お歌にもお示し頂いた様に、全ての事を天地任せ神様任せで。
 それこそ忍べ折れるな若竹の節という様な、お歌を頂きましたが。本当にそういう言うならば数十年間であったと思う。それがずうっとおかげを頂いてきて、今日のあのおかげを頂いておる。けれどもそれはどこまでも日まさり、月まさり、年まさりのおかげを頂いて来たのでありますから、これからは正義さん一つ代まさりのおかげを受けなければいけないよと言う事でございました。信心させて頂いて段々おかげを頂てくる。
 けれどもこれが代まさりのおかげというと、やはりお徳を頂かなければあの世にも持って行かれないけれども、次の代の者に渡す事が出来ない。そこに初めて気づかせて頂いたのが、その後の正義先生の信心だと思うんです。あん時にあのあの朝ぶんぷく茶釜の御理解を頂いた。いかにも本当のもののようにしておるけれども、火に掛けられるとすぐ尻尾を出す。こういう信心ではいけないよと。どんな場合であっても狂わない。どんな場合であっても迷わない。
 ただそういう意味でおかげを頂いてきたと言う事においては、正義先生の信心はまぁ合楽でならちょっとした手本であろう見本であろう。どんぶりがないずうっとおかげを頂いてきておる。しかも本当にあのこれはもう信心させて頂く者の願いであり理想です。本当に檜の香のぷんぷんするようなお部屋に神様を奉祭して、本当に日々心ゆくまでの御祈念が出来るようなおかげを頂きたい。お神様の前が八畳その次の間が十畳、その襖を取り外すと十八畳。そこで信心の色んな共励会が毎月出来る。
 もうそれこそもう本当に檜の香が漂うような立派なご神殿が、しつらえられた。もう教会にしても可笑しくないような、立派なお神様を奉祭する事が出来た。だからこれはどこまでも、言うならばおかげの理想が、そこにまぁ一つの成就を見たわけですけれども、これから代まさりのおかげを頂くと言う事になると、あのくらいなおかげはまぁだ、それこそまだまだ、神様はまぁだまぁだと仰っておられる。お徳を受ける代まさりと言う事は、お徳を受けると言う事なんです。
 あの世にも持って行け、この世にも残しておけると言うのです。勿論そんなら二十数年間の狂いの無い信心を段続けてきた上にも、ただこれからは言うならば神様のご信用を頂いていくことのために、一筋に家族勢を揃えて信心させて貰う。そしたらその日にあるところから綺麗にお家が建ったからお祝いに、お祝いを頂かれたのが何と金の茶釜だった。もう本当に朝文福茶釜の御理解を頂いて帰ったら、うちにはそういう金の茶釜の、いわゆる文福茶釜の信心ではなかったろうけれども。
 より本当な信心金のそれこそ光り輝くような真善美に輝くような、おかげをこれからは頂いてくれよ。お徳の世界に入って行ってくれよと言う神様の願いがね、そこに感じられるよう。そう言う事を家族の者に話したら、家族の者もやはりほんな事不思議なもんじゃあると思うただろうと思うんです。今朝からお届けがありますのに、あれ以来おかげを頂いて、どうでも代まさりのおかげを頂かなければならんと親先生が仰るから、お前達も一生懸命信心の稽古を一緒にさせて頂こうと言うて。
 家族中で夜の御祈念大祓信行をさせて頂いて、もうとにかく有り難うして有り難うしてとこう、今朝からお届けがございました。もう早速その言うなら代まさりの信心に、取り組んでいっておると言う事でございます。私は昨日研修の時に研修が終わりましてから、女の先生方に毎晩お風呂は誰が入れて誰がしよるか知らん。この頃は心行心行と言われるから、こら成程お風呂に入ると綺麗になっとる。誰が上がったっちゃ石鹸が綺麗にこうやって、タオルがきちっとこうしてある。素晴らしい。気持ちが良い。
 ところが先生お風呂が入りましたと言うて来るけん入ると、ほんなお湯がこの位しか入っとらん時がある。それかと思うとてんでだぶだぶこうしてから、洗面器に取らにゃん時がある。手を付けてみると熱かったりぬるかったり、勿論そこにはお湯も出よりゃ、水も出よるから、それで良いのですけれども。これでは私は心行が一つも出来ておらん。言うならばあんた達の師匠がお風呂に入ると言うのですから、丁度湯加減も湯の量もね、丁度良いような、いわばそこを祈り願わせて頂いて。
 これならば親先生に一番丁度良かろうというところで、お風呂がお湯が入りましたと言うて来なければ、いけんのじゃないだろうかかねと私が話したんです。そしたら今日もう今日はもう、本当にタイルの何枚目ぐらいまでお湯が入るとが理想だと、言いやしませんでしたけれども、丁度そこまでお湯が入っとった。それで手を付けてみたら、それこそ熱くもなからなければ冷たくもないという、丁度良い私の体温を知っておるような、そのお湯が入っておった。
 いわゆるねそれを知っとらんけれども、本当にそこに心を使わねばいけないと言う事が神様の機感に叶うから、そういうきちっとした、今日は久富先生と茂雄雄さんと三人で入ったからそうだったでしょうが。今日は入れますね。後から三人がまた入ったから入れますけれども。入る時にもうそれこそそのままは入られるような風に。心行とはそう言う事なんだと言う話を致しましてね、その日私はお風呂に入りながらふっと考えた。まるきり自分がその神様のごと思うてね。
 いわば修行生の人達にあぁいうふうな事を言うたがね、先生が威張ってござるという風に思いだんせじゃったじゃろうか、いやいやそうじゃない。私の心の中にです。そういう事はどうでも良い。熱かっても冷たかっても、お湯が多かろうが少なかろうが、もうそこにはお湯がまたは、水がその場で出るようになってるんだから、そんな事はどうでも良い。けれどもそう言う事では本当の心行に取り組んでおるとは言えないから、言うておかなければならなかったと思うた途端に。
 あの脱衣場の所にもうそれこそ、バーンというオイサミがありました。だから今晩はその事をそういう心掛けにならなければ、おかげが受けられんと言うのですから、私はあえ皆さんに聞いて頂いた訳です。今日ちょうど五時過ぎです。今日はもう朝から一年中のやはり御礼参拝が、日頃はお参りが出来なくても、まぁ年末だけはと言うのでしょう。皆さんがあのその御礼の参拝が続いておりました。おかげを頂きまして今年もあそこにお供えがしてあります。あのお届け帳が、あれだけのお届けを一年間にさせて頂いた。
 なんぼでしたかね、池田先生。二十八万二千名のお届けをさせて頂いた。丁度去年よりも一万なんぼ多くなっとると申しております。また今晩その後のがまたございましょうから、それに加わる訳でございますけれども。やはり日まさり月まさりのおかげを頂いてきております。これは久富正義さんの所だけではない。日まさり月まさりにおかげを頂いて来ておるが。ほんならいよいよ私がね、言うなら代まさりのおかげを頂く者を残しておかなければならない。
 その残しておるものがほんなら子供達の上にも、信者皆さんの上にも、どのように現れてきておるかと言う事でございます。言うなら合楽理念に基づいて、お互いの信心生活が出来るようにならせて頂いて、それこそあいよかけよの道がね、神も助かり氏子も立ち行くような道の顕現ともなって、おかげを頂いていかなければならないが、果たしてお互いの手元の所で、どう言う事になっておるだろうか。これは私をも含めてであります。ほんなら合楽が応援しござる時には盛んだったけれども。
 それこそ年々歳々信者は増えて行ったけれども、あちら親先生が亡くなられた途端に、信者が段々減って行くと言う様な事では、代まさりになりません。今日も下ろうとしておりましたら、若先生が今朝からあのういろいろと神様にお知らせを頂いた。この頃僕はどうもとにかく毎朝三時半に目覚ましのおかげを頂く。だからこれは親先生と一緒に、三時半から出らにゃんとだろうかと思いながら、なかなか踏ん切りがつかんでおりますけれども、もう間違いなし三時半に目覚ましのおかげを頂くとこう言っております。
 はぁ神様の働きが本当に始まってきたなと思わせて貰う。次にお知らせを頂いておる事が、こう言う事を頂いております。「水が大地に根を下ろし、難儀の元を作る」とお声で頂いたそうです。水が大地に根を下ろしたらどういう事になるか。水と言う事はお恵みという事。おかげと言う事です。そのおかげがそのおかげが大地に根を下ろしてしもうて、根を張っておかげをおかげと思わんようになり、そこからおえて来るものは、難儀の枝葉がしこってくるような、難儀の根が難儀の元が出来ると言う事なんです。
 もう私も常日頃その事は考えておりましたけれども。私は言わない主義ですから申しません。皆さんもご承知の様にここではもう私共の生活というものは、神様のお下がりで、一切を衣食住の全てを任せきっての生き方でございました。今でも大体に於いてそうですけれども。最近はやはりあの子供達、または嫁達そういうものが段々少なくなってきて、お醤油が足らにゃお醤油を買いに行く。お客さんがありゃお魚も買いに行く。まぁ自分達のほんなら使わせて頂く様なものでも、それは買って良いどころではない。
 これだけのおかげを頂いておるから。けれどもその買わせて頂くという事やら。今日も私は夕方下がらせて頂きまして、もうそのこのお下がりがあそこに一杯。もうそれも見事なお供えばかりを、もう本当にお酒ならお酒があそこに下っておりましたが。早う頂いてもらわんと悪くなると言うてきとるのが、もうあのなんですかね。黒松白鹿のあの金樽です。こらもう頂かないと悪くなるかも知れませんからち。もうそれが一杯所狭しと置いてあります中でです。
 こらまちっとどうか整理整頓しないかと言いたいように、いわばおかげの中に埋まっております。もうこれがお粗末になるのじゃないだろうかと心配されるくらいにあります。けれども、そういう有り余るようなおかげのなかに浸らせて頂いておると言う事を、有り難いと思わせて頂いて、今日は朝からそれですけれども、一年中の御礼やらもう限りないお詫びやら御礼をさせて頂いて、まぁ今日のこのお祭りの形にいわばなったわけでございますけれども。
 そういういわばおかげの中に浸っておってです、まだやはり足りないものがあれば買いに行ったり、またはそれを買う事を当たり前のように思うたり、と言う事になる事がです、難儀の元を作ると若先生が頂いた。家族中の嫁達やら兄弟達みんなを集めて、今日は私はこんなお知らせを頂いたぞとね。それこそお供えをさせて頂く者も一生懸命なら、お取次ぎをさせて頂く者も一生懸命。それをまた頂かせて頂く家族の者も、また一生懸命でそれを頂くと言うところに、いよいよ教会比礼の元があるんだぞと。
 教会比礼の元ではない、難儀の元を作る様な事を、教会内におかげを頂いておる者がしておってはならんじゃないかと。昨日も私出てまいりましたら、一昨日そこのどこでん大きな電気を一杯点けておるとも何か言わんもん。そるけんちょこっとばかり開けて見たらもう眠っとる。それで私電気を消させて頂いたんですけれどもね。もうとても心行させて頂いておれば、そげな事は出来んのです。何時も心の中に神様があったら、お粗末やらご無礼になる様な事は出来んです。
 それを迂闊にしておって、それが難儀の元を作る様な事になってはならない。慣れるという事が一番恐ろしいと言う事でございます。そこでほんなら若先生が今頂いて最近頂いておる事は、もうブラジル布教の事から何から、細々と頂いております。段々おかげを頂いて、神様との言うなら交流も出来てきておる。これはもう本当に私が何時死んだっちゃ良かごたる風に、神様が二代の信心を鍛うて下さってある。そういう感じがするんです。そこでなんです。
 少し言い難うなった。この頃ねあのお歳暮が非常に少なくなったです。お年玉が大変少なくなったです。お鏡さんがもうそれこそ昔の椛目と言うたらね。半年はやっぱお鏡食べんならんごとあったっです。盆ともなると素麺なそれこそ何ヶ月カビの生えるまで食べんならんじゃったです。というぐらいにいわばお供えお歳暮が、親先生にもう今日も沢山お礼に来た人達がです。この人達が昔はですね。心が何か生き生きともうそれこそ、親先生がお喜びになるからというて、もう本当に思いを込め心を込めてです。
 お歳暮なんかは工夫したもんだけれども。この頃は段々時代が変ってきて、もう親先生は何でも持ってござるけんと思うておるのか何か知らんけれども。どんなにあっても余っておってもです。その私は思いが大事だと思うのです。私が今日なぜこの一番さっきに、合楽理念の例えば六か条とでもという様なものを聞いていただいたか。または今日夕方参りました、この三宅さんという方の、もうとにかくここに見えた時には手が上に全然上がらないんです神経痛で。それで私が申しました。
 今晩一晩泊めて頂いて今晩のお月次祭を頂いて行きなさいと。そしてお昼までおかげを頂いて帰りなさいと。それをもうそのまま頂いて、そのままおかげを受けておる。もう今日で言うなら八日になりますけれども、おかげ頂いて右の手が上がるたんべんに、涙をこぼして喜んでおるとこれに書いてありますでしょう。そういうおかげがそういう遠方から参ってきたり、初めての人であったり、新しい人達の上にだけ現れると言う事は、どういう様な事かと。信心が出来ておる出来てないは別として。
 その初心な心というのが神様の心をおかげをキャッチするんだと私は思います。そこで皆さんがどうでもね、年末ともなったらもう親先生に今年のお歳暮は、どんなお歳暮をさせて頂こうかと思いを込める、心を込めるような、良いですか先ほど修行生の方達に、「あんた達は師匠を何と思うとるか」と。お風呂が入りました。入ってみりゃお湯はこん位しか入っとらん。手を付けたらもうてんで、もう手の付けられんごと熱か。かと思うとてんであの越しよるけれどもそのぬるかった。
 そしてこれで師匠にどうぞお風呂入って下さいと言うて。それがほんなら日々心行させて頂いて自分どんが風呂に入った時だけは、もうそれこそきちっと言われた通りの事が出来よると言う事は、その事だけの事じゃないんだよと。一時が万事に心を使うと言う事が心行なんだ。心行しとりゃこうする事が本当だと言う事が分かる。分かる証拠にほんなら今日私がお風呂入らせて頂いて、私の理想はこのくらいのところ上からのところにお湯が入っとるとが一番ちょうど良いと思うし。
 手を付けてみたら、まぁこれがうべる事も要らなければ、また熱い湯を入れる事も要らんと言う様な、ちょうど良いものが出来て、初めて師匠と弟子との交流があるのだと。そう言う様に、例えばほんなら言う事がです、私が師匠として、師匠を粗末にすると言うて、私を大事にせなければならぬと言うて、言うておるのではなくて。私はそういう風に受け取りはしなかっただろうか。いやいやそうではない。自分の心の中にそうして貰いたいのではない。
 そうしなければおかげを受けられないから、言うたんだと思うた途端に、脱衣場一杯にオイサミを頂いた。やっぱりそれが本当だと言う事から。例えば年末ともなり、本当に一年中おかげを頂いてと言うならば、神様にも手厚う御礼を申し上げなければならないが。そのご心配ばかりをかけて、まぁ例えばですよ掛けておる私は、いっちょん心配はしよりまっせん。けれどもね皆さんからは、ご心配をかけとる事にしとかにゃいかん。あっはははね。かけておる親先生にそれこそね。
 本当に思いの丈をね、本当にそれこそ、落ち葉の一枚でも思いを込めれば、神が受けると仰るくらいですから。そういう例えば以前に感じておったような、重さというものがお互いの信心の中から、段々なくなってきたのではなかろうか。それが形式になってはなりません。けれどもね形式を重んじると言う事は、その内容がこれではいけん形式だけではいけない。私は盆正月に、親教会にお中元を、私がご中元は何時も決まっておる。夏はお砂糖です。もう一年中使われるだけお砂糖を持って行く事にしております。
 お歳暮には味の素をもう一年中、使うても使いきれなさらんだろうと思うものを、毎年、同じですけれども、毎年同じですから、これはもう、合楽から来ると、向こうでも当てして待って頂いておる。そこにね私は交流を感ずるです。さぁほんなら三十日には、うちでもお鏡つきが終わりますから、一番最高のお鏡餅をひと重ね。それからお神酒を霊神様と神様、それからまぁもうとにかく、絞るとにお三方に乗せられるつう一杯のものを、毎年深町さんにお願いしとりますから。
 綺麗にお歳暮用として持ってきてくれますから、それを持っていわゆる年末のご挨拶に出ます。毎年これは家例になってます。だからそれが形式になってはならんと、それをするたんべんに思うのです。その思いがいわゆる日頃心行させて頂いておるから、ただ形式になっては今度は自分自身が馬鹿らしいですものね。形のこつなんかと言うのがいわば、合楽の信心のいわば、なそうと思えば子供でもなせる事を疎かにする事でございますから、そういう形式を重んずると言う事は、中身にです。
 心行を伴うた形式形という事になる時にです今年一年中のです、例えば御礼やら限りないお詫びやらをです。ほんならこういう形式のお祭りをさせて頂く時にです。それこそ心も晴れ晴れと、明日のめでたい元旦のお祭りに出られる思いがするようなお祭りが今日の、昔はこれを年末の大祓式と申しておりましたが、今は御礼お詫びのお祭りとして、このような形で仕える訳です。そしてこれでもう本当に清々しい元旦が迎えられる。そういう気持ちが、次のおかげを頂く事になるのですから。
 ただ形式形と言うて軽視することは出来ません。その中身に心行をこめていくと言う事でございます。これは例えば明日の元旦祭の、今はまた沢山の人がお参りになるでしょう。それに今日のようなお話をしたら、親先生がえらい自分が偉かつのごたるこつばっかり話したとかね。何か貰うごたるこつばっかり言うたとか、乞食のごたるやっじゃあると思う人もありましょうから。今日はまぁそんな方はおられんと思うから、今日は聞いていただいた訳ですけれども。問題は皆さんの心の中に神様のおかげをキャッチするね、初心な心というものをどうして頂くかと。どうして信心の中身としていくかと言う事を、今日は聞いて頂きました。
   どうぞ。
 どうぞ皆さんあのう改めてね明日は、お年玉とかねそんな事はどうぞ御心配御無用に願います。ほんと、もうそりゃ本当にそうです、もうどんこん私の方も困ります、もうやらげ頂いたっちゃ、けどそのう気持ちを聞いて頂いたとですからね。どうぞ。